月曜の朝、エレベーターの扉が閉まる直前に、上司が乗り込んでくる。二人きりの密室で、階数表示だけが静かに増えていく。「何か話したほうがいいのかな」と思いながら、結局ひとことも出てこない。自分のフロアに着いて扉が開いた瞬間、少しほっとする。
あの数十秒の気まずさを、僕は何百回も経験してきました。昼休みの雑談の輪に入れないまま、スマホを見ているふりをしたこと。飲み会で、隣の人との会話が10秒で終わってしまったこと。
この記事は、そういう人のために書きます。結論を先に言うと、雑談は「話す場」ではありません。話さなくても、雑談は成立します。僕がいまも使っている「話さない雑談術」を、この記事に全部まとめました。
僕も、雑談から逃げ続けてきました
僕は昔から、雑談が苦手です。中学の通学路では、友達の話をただ聞いているだけでした。専門学校で上京してからは、サークルの飲み会で輪に入れず、端っこで一人ビールを飲んでいました。大人数の場が怖くて、遊びの誘い自体が憂鬱でした。
頑張って話そうとしたことも、何度もあります。でも、言葉がつまり、声がつまり、文章になりません。気の利いた一言を用意しても、口に出すタイミングを逃して、会話は次の話題へ進んでいきます。
そんな僕でも、いまは職場の雑談を人並みに乗り切れています。話せるようになったからではありません。「話さなくても雑談は成り立つ」と知って、やり方を変えたからです。緊張と不安は、今も毎回あります。それでも、雑談の時間が「怖い時間」から「なんとかなる時間」に変わりました。
雑談が苦手なのは、あなたの欠陥ではありません
まず、これだけは先に伝えさせてください。雑談が苦手なことは、性格の欠陥でも、人間性の問題でもありません。
雑談には、教科書がありません。学校でも会社でも、誰も教えてくれないのに、できて当たり前という顔をされます。しかも相手も話題もその場任せで、正解がない。苦手な人がいるのは、当たり前なのです。
それに、雑談が苦手な人には共通する長所があると僕は思っています。「変なことを言って相手を傷つけたくない」と考えるから、言葉が慎重になるのです。それは優しさの裏返しです。直すべき欠点ではなく、活かし方を変えればいい特徴だと考えてください。
雑談の正体:中身がなくていい会話
僕が雑談への見方を変えるきっかけになった本があります。齋藤孝さんの『雑談力が上がる話し方』です。この本では、雑談とは中身のない話をすることに意味がある、と説明されています。結論もオチも要らない、とも書かれています。
つまり、雑談の目的は情報のやりとりではないのです。「私はあなたの敵ではありませんよ」と、お互いに確認し合うこと。場の空気をゆるめること。それが雑談の役割です。
これを知ったとき、僕は肩の力が抜けました。昔の僕は、雑談を「面白い話を披露する試験」だと思い込んでいたからです。オチのある話も、気の利いた一言も、そもそも要求されていませんでした。天気の話が世界中で交わされているのは、中身がないからこそ、なのです。
発想の転換:雑談は「話す場」ではなく「聞く場」
もうひとつ、僕を助けてくれた事実があります。ハーバード大学のタミールとミッチェルによる2012年の研究(PNAS掲載)では、人は自分について話すとき、脳の報酬系の活動が高まることが示されました。実験では、少額の報酬をあきらめてでも自分の話をする人が多かったと報告されています。
つまり、世の中の多くの人は「話したい」のです。雑談の場で本当に不足しているのは、面白い話ではなく、聞く人です。
だったら、僕たちは聞く側に回ればいい。話したい人と、聞ける人。組み合わせとしては、むしろ相性がいいのです。僕はこれを「役割分担」だと思うようにしています。話すのが得意な人に話してもらい、僕は場が心地よく続くように聞く。どちらも、雑談への立派な参加です。聞く技術の全体像は聞く力の教科書にまとめました。
話さなくていい雑談術:5つの技術
ここからは、僕が実際に使っている具体的な方法です。どれも「話す力」を必要としません。
1. 相槌の引き出しを3つだけ持つ
雑談の8割は、相槌で乗り切れます。僕の基本セットは、この3つです。
- 「へえ、そうなんですね」(標準)
- 「えっ、そうなんですか」(驚き)
- 「いいですね」(肯定)
ポイントは、声の温度を相手の話に合わせることです。うれしそうな話には明るく、愚痴には静かに。同じ言葉でも、トーンが合っているだけで「ちゃんと聞いてる人」になります。
2. 「質問返し」で会話のボールを返す
何か聞かれたら、答えたあとに同じ質問を返します。
相手「連休、どこか行きました?」僕「家でゆっくりしてました。○○さんは行かれたんですか?」
自分の答えは一文で十分です。むしろ短いほうが、相手が話す時間が増えます。質問を考える力も要りません。もらった質問を、そのまま返すだけだからです。自分から質問を作りたい人は、答えやすい質問の作り方も読んでみてください。
3. オウム返しに、ひとことだけ足す
相手の言葉の一部を繰り返して、感想をひとつ足します。
相手「昨日、子どもの運動会だったんですよ」僕「運動会だったんですね。いい天気でよかったですね」
繰り返す部分は、相手がいちばん話したそうな単語を選びます。たいていは、文の最後のほうにある言葉です。これだけで、相手は続きを話しやすくなります。
4. 天気・季節ネタは「受ける」専用でいい
雑談の定番といえば天気の話です。でも、自分から振るのが気恥ずかしいなら、無理に振らなくて大丈夫です。誰かが「今日は暑いですね」と言ってくれたら、そこに乗ります。
「ほんとですね。もう夏ですね」
これで雑談は1往復成立しています。先ほど書いたとおり、雑談に中身は要りません。1往復できたら、その雑談は成功です。
5. 終わらせ方をあらかじめ持っておく
僕は昔、雑談を「終わらせてはいけないもの」だと思っていました。だから沈黙が近づくと焦って、余計に固まっていました。でも、雑談はサッと切り上げていいものです。
- 「じゃあ、また後ほど」
- 「お先に失礼しますね」
- 「あ、そろそろ戻りますね」
終わらせ方を持っていると、雑談を始める怖さが減ります。出口を知っている部屋には、入りやすいのと同じです。
話を振られたときの守り方
聞く側に回っていても、話は振られます。ここで固まってしまう気持ちは、痛いほどわかります。僕が使っている守り方は、2つだけです。
一文で答えて、質問で返す
「休みの日って何してるんですか?」と聞かれたとします。昔の僕は「面白い答えを言わなきゃ」と焦って、固まっていました。今はこう答えます。
「だいたい家で映画観てますね。○○さんは何されてるんですか?」
答えは一文。地味で構いません。「家でゆっくり」でも「散歩くらいですね」でも十分です。大事なのは、答えたあとに質問で相手へ返すことです。これで会話のボールは相手に渡り、自分は聞く側に戻れます。
「静かだね」と言われたら
雑談が苦手な人が、いちばん傷つきやすい一言だと思います。僕は昔、この言葉を「つまらない人だね」と翻訳して落ち込んでいました。今は、こう返すと決めています。
「そうなんです。話すより聞くほうが好きで」
事実ですし、卑屈でもありません。返す言葉を決めておくと、この一言はもう怖くなくなります。不意打ちだから傷つくのであって、準備があれば受け止められるのです。
場面別:僕の乗り切り方
エレベーター・すれ違い(数十秒)
ここは、無理に話さなくていい場面です。会釈と「お疲れさまです」だけで、社会人の合格点です。余裕がある日は「今日は冷えますね」のような一言を足します。返事が一言返ってきたら、それで十分です。
昼休み・ランチ(10〜30分)
長丁場ですが、複数人いる場なら、僕は聞く役に徹します。相槌を打ち、誰かの話に「それでどうなったんですか?」と続きを促す。これだけで「輪の中にいる人」になれます。発言量が少なくても、うなずいている人は、ちゃんと場の一員に見えるものです。
飲み会(2時間)
僕がいちばん苦手だった場面です。今も得意ではありませんが、次のように決めてから楽になりました。
- 席は端ではなく「話しやすい人の隣」を選ぶ
- 全体の話題を追うのはあきらめて、隣の一人とだけ話す
- その一人の話を、相槌と質問返しで聞く
飲み会全体を乗り切ろうとしなくていいのです。隣の一人との1対1が成立すれば、その飲み会は成功だと僕は考えています。
初対面の人と二人きり(研修・待ち時間)
初対面は、実は聞く側にとって有利な場面です。お互いに相手の情報がゼロなので、聞けることが無限にあるからです。僕は「今日はどちらから来られたんですか?」のひとつだけ用意していきます。あとは返ってきた答えに、相槌とオウム返しで乗るだけです。自分のことは、聞かれたら一文で答えて質問返し。これで初対面の30分は、話が苦手なままでも乗り切れます。
沈黙が来ても、失敗ではありません
技術を使っても、沈黙は来ます。でも、沈黙は雑談の失敗ではありません。
聞く側に回るとわかりますが、沈黙の多くは、相手が次の話を考えている時間です。そこで焦って何か言うと、かえって相手の話の芽を摘んでしまいます。沈黙が来たら、心の中で3秒数えてみてください。たいてい、どちらかが自然に次の話を始めます。3秒待っても続かなければ、先ほどの「終わらせ方」を使えばいいだけです。
沈黙を怖がらなくなると、雑談そのものが怖くなくなっていきます。僕の場合、この順番でした。
よくある質問
Q. 雑談のネタ帳は作ったほうがいいですか?
僕は作りましたが、ほとんど使えませんでした。用意したネタを切り出すタイミングが、そもそもつかめないからです。それよりも、この記事の相槌と質問返しを先に体に入れることをおすすめします。聞く側に回れば、ネタは相手が持ってきてくれます。一言目の型は「見たまま話法」に書きました。ネタ帳を持つとしたら「終わらせ方のフレーズ集」のほうが、僕には役立ちました。
Q. リモート会議の前の雑談タイムが苦痛です
僕も苦手です。オンラインは沈黙が強調されるうえ、相槌のタイミングも取りにくいからです。僕の対処は、うなずきを対面より大きくすることと、誰かの発言に一言だけ乗ることです。「それ、いいですね」だけでも、画面の中では十分に参加に見えます。全員が黙っている時間は、全員が気まずいので、あなたのせいではありません。
聞く側でも、これだけはやらない
話さない雑談術は、黙ってさえいればいい、という意味ではありません。聞く側にも、避けたほうがいい振る舞いがあります。どれも、僕が実際にやって空気を悪くした失敗です。
- 「でも」「いや」で受ける。 雑談に正しさの議論は要りません。まず「そうなんですね」で受けます。
- スマホを見ながら相槌を打つ。 生返事は、沈黙よりも相手をがっかりさせます。
- 詮索する。 相手が濁した話題は深追いしません。雑談は取り調べではないからです。
- 自分の話にすり替える。 「わかります、僕も」と話を奪うと、相手の話が宙に浮きます。共感は一言で十分です。
逆に言えば、この4つを避けて相槌を打っているだけで、雑談相手として十分に感じがいいのです。ハードルは、思っているよりずっと低い場所にあります。
それでもつらい日は、逃げていい
最後に、これを書かせてください。どうしてもつらい日は、雑談から逃げていいです。
僕は高校進学のとき、女子の少ない工業高校をあえて選びました。当時は後ろめたさもありましたが、いま振り返れば、あれは「環境選びによる自衛」でした。男子だけの気楽な環境で、僕は数年ぶりに落ち着いて過ごせたのです。逃げた先にも、ちゃんと居場所はありました。
昼休みに一人になりたい日は、外にコーヒーを買いに行っていいです。飲み会を断っていい日もあります。雑談術は、毎日戦うための武器ではなく、余裕がある日に少しずつ試すものです。できない日があっても、あなたの価値は変わりません。