8月の終わりの午後を、今でも覚えています。2階の自分の部屋で、机の上に原稿用紙を広げていました。書けていたのは、題名と学年と名前だけ。そこから一時間、マス目はひとつも埋まりませんでした。
課題の本は、ちゃんと読んでいました。あらすじなら言えました。誰が出てきて、何が起きて、どう終わったか。それは全部わかっているのに、「思ったことを書きましょう」の先が、まったく出てこないのです。
これは、連載「話せなかった僕の記録」の第1話です。話し下手だった——今も得意ではない——僕が、どうやってそうなっていったのかを、順番に書いていきます。
「面白かったです」の先が、続かない
鉛筆を持って、最初の一文を書いてみます。「この本を読んで、面白かったです」そして、止まります。
どこが面白かったのか。なぜ面白かったのか。自分はどう思ったのか。
先生が求めているものが、そういうことなのはわかっていました。でも、机に向かって自分の中をのぞいても、そこに言葉が見つからないのです。感想という棚があるはずの場所が、暗くて、何も取り出せない。そんな感覚でした。
何か書けることが見つかるかもしれないと思って、本を何度もめくり直しました。でも、見つかるのはやっぱり、あらすじだけでした。誰が何をしたかは書いてあるのに、僕が何を思ったかは、どのページにも書いていないのです。当たり前のことなのですが、当時の僕は本気で、本の中に答えを探していました。
結局その年の感想文は、あらすじを長々と書き写して、最後に「勉強になりました」と付け足して提出しました。返ってきた原稿用紙には、赤ペンで「あなたの気持ちをもっと書きましょう」とありました。その「気持ち」の見つけ方こそ、僕がいちばん知りたいことでした。
感想が「ない」のではなかった
大人になった今なら、少しだけわかります。あのとき僕の中に、感想がなかったわけではありませんでした。
本を読んで、胸がざわざわしたページはありました。主人公が友達とけんかする場面で、読むのが少し苦しくなったのも覚えています。つまり、心は動いていたのです。
ただ、その動きに名前をつけて、文章の形にして取り出す方法を、僕は知りませんでした。「感じる」と「言葉にする」は、別の作業です。そして後者は、練習しないと身につかない技術だったのだと思います。
学校では、作文の書き方は習いました。原稿用紙の使い方、段落の作り方、丁寧な言葉づかい。でも「自分が何を感じているかを見つける方法」は、誰も教えてくれませんでした。
「どう思った?」と聞かれたことがなかった
では、その練習はどこでするものなのでしょうか。たぶん、多くの人は日常の会話の中でしているのだと思います。
「今日、学校どうだった?」「そのテレビ、面白い?」「それ食べて、どう?」
聞かれて、答えて、受け取ってもらう。その繰り返しの中で、自分の気持ちに言葉を当てる練習が、自然に積み重なっていく。
僕の家には、その繰り返しがありませんでした。「どう思う?」と聞かれた記憶が、ほとんどないのです。家の中の言葉は必要な連絡だけで、気持ちをやりとりする道具ではありませんでした。
だから、原稿用紙の前で固まっていたあの日の僕は、練習したことのない競技にいきなり出場していたようなものでした。書けなかったのは、頭が悪いからでも、心が空っぽだからでもなかった。ただ、練習の機会がなかった。そう思えるようになるまでに、30年近くかかりました。
たぶん、周りからは、サボっている子に見えていたと思います。「なんでもいいから、思ったことを書けばいいんだよ」と先生は言いました。その「なんでもいい」が、いちばん難しかったのです。計算のように手順の決まったものなら、机に向かえばなんとかなりました。自分の中から取り出すものだけが、どうしてもだめでした。
同じだった人へ
もしあなたも、読書感想文が書けない子供だったなら。あるいは今、「あなたの意見は?」と聞かれるたびに固まってしまうなら。
それは中身がないからではない、と僕は思っています。心は動いているのに、取り出す道具をまだ持っていないだけです。道具は、大人になってからでも、少しずつ揃えられます。僕がそうだったので、これは僕の実感です。同じ悩みには、「何を考えてるかわからない」と言われるあなたへも書いています。
ちなみに、こうして文章を書けるようになった今でも、書き出しの前には毎回すこし固まります。あの原稿用紙の前の感覚は、完全には消えていません。消えないまま、それでも書けるようにはなる。この連載自体が、その証拠のようなものだと思っています。
では、なぜ僕の家には会話がなかったのか。次の話では、そのことを書きます。2階の自分の部屋で、1階の音を聞いていた夜の話です。第2話は2階の部屋で聞いていた音です。