夜の9時過ぎ、2階の自分の部屋。1階から、母の叫ぶ声が聞こえてきます。それにかぶさる父の怒鳴り声。そして、何かが倒れる音や、割れる音。
僕は布団の中で、漫画の同じページをずっと開いていました。読んではいません。耳が、下の音を追ってしまうからです。今夜はいつ終わるんだろう、と天井の木目を見ていました。
連載「話せなかった僕の記録」の第2話です。前回は、読書感想文が書けなかった子供時代のことを書きました。今回は、その背景にあった家の話です。
毎日のように、ケンカがあった
僕の両親は、毎日のようにケンカをしていました。きっかけが何だったのかは、子供の僕にはわかりませんでした。わかっていたのは、夜になると1階が戦場になる、ということだけです。
2階の部屋にいても、声は筒抜けでした。言葉の内容まではっきり聞こえる夜もあれば、音の塊としてしか聞こえない夜もありました。どちらにしても、体は同じ反応をしました。肩に力が入って、胸のあたりが冷たくなって、音が止むまで動けないのです。
怖かったのだと思います。ただ、当時はそれを「怖い」という言葉で捉えてはいませんでした。毎晩のことだったので、それが普通の夜だと思っていた部分もあります。
音が止んだあとの静けさも、覚えています。静かになっても、耳はしばらく1階に向いたままでした。その静けさが、今夜の終わりなのか、ただの休憩なのか、わからなかったからです。安心というものは、いつも保留のままでした。
静かな食卓と、連絡だけの言葉
意外に思われるかもしれませんが、翌朝の食卓は静かでした。何事もなかったように、それぞれが黙って食べる。テレビの音だけがしている。
僕の家には、家族の会話というものが、ほとんどありませんでした。交わされる言葉は「ごはんできたよ」「明日、学校何時?」といった連絡だけです。今日あったことを話す、感じたことを聞いてもらう、誰かの話に笑う。そういう時間は、記憶にある限り、ありませんでした。
そして夜になると、また1階から大きな声がする。つまり僕にとって、家の中の「大きな声」は、いつも争いの音でした。言葉は気持ちを伝え合う道具ではなく、ぶつけ合う道具として、僕の耳に入ってきていたのです。
無口は、性格ではなく習慣だった
そんな家で、僕は自然に声をひそめて暮らすようになりました。黙っていれば、少なくとも自分が火種になることはありません。話しかけて、機嫌の悪いタイミングに当たるほうが怖かった。
必要なこと以外は言わない。感じたことは、言わないというより、言うという発想がない。それが僕の日常になりました。
「無口な子」と、学校では言われていました。でも今振り返ると、あれは生まれつきの性格というより、あの家で身についた習慣だったのだと思います。話さないことが、いちばん安全だった。子供なりの、合理的な適応だったのかもしれません。
ただ、その習慣は家の外にも持ち出されました。感じたことを言葉にして人に渡す練習を、僕は家でゼロ回のまま育ちました。前回書いた読書感想文が書けなかった子供時代は、この延長線上にあったのだと思います。
思えば、学校で同級生が「昨日さ、家でこんなことがあってさ」と笑いながら話すのを、少し不思議な気持ちで聞いていました。家での出来事を、外で楽しそうに話す。その感覚が、僕にはよくわからなかったのです。話すことがなかったのではなく、家の中に「話してもいい出来事」がなかったのだと、今は思います。
責めたいわけではない、ということ
断っておきたいのですが、僕はここで親を告発したいわけではありません。両親には両親の事情があったのだろうと、今は思います。それを子供に見せない配慮がなかったことは、残念でしたが。
ここに書いたのは、「話せない」がどこから来たのかをたどると、僕の場合はあの2階の部屋に行き着く、という事実です。同じような家で育った人が、この文章を読んでいるかもしれません。あなたの話しにくさにも、あなたのせいではない出発点があるかもしれない、ということを伝えたくて書きました。
「話せないのは自分の欠陥だ」と思っているのと、「あの環境なら、そうなるのも自然だった」と知っているのとでは、自分への接し方が変わります。僕は後者に立てるようになってから、少しだけ息がしやすくなりました。
そして、ひとつだけ付け加えさせてください。家庭のことで今もつらさが強い場合は、一人で抱えず、自治体の相談窓口や医療機関など、専門機関に相談するという選択肢もあります。話すことでも、書くことでも、外に出す先はあります。
次の話
中学に上がると、僕の「話せない」は、もうひとつ別の形で深まっていきます。きっかけは、自分の「声」そのものでした。音楽の授業で起きた、小さくて、僕には大きかった出来事の話です。第3話は高い声と音楽の授業です。